ふたつ目の問題はチームを流れる空気だろう。
また会社の喩えで申し訳ないが、その会社が儲かっているか、そうじゃないかは
入口を入ってみてすぐにわかる。うまく回っている会社は明るく、社員の表情も
生き生きとしている。対し、そうでない会社には、えも言われぬどんよりとした空気が
漂い、決して笑顔などない。
以前ガラタサライの練習を見た時、チームのメンバーは非常に明るかった。
時折爆笑まで聞こえ、選手達はおどけ、怪我への注意力にも欠け、よく監督は
注意しないものだと思うほどだった。
「これはまずいな」
と、私は思った。
明るいのは大いに結構!負けがこんでても、チームが下り坂でも、わざわざ
しかつめらしい顔をする必要はない。笑う門に福来る!と思う。
・・・が、この明るさは何かが違っていたのだ。
現状を受け止め、自分なりにもがき、昇華した上での明るさじゃない。
勝利への執着を忘れ、負ける事の羞恥に慣れた「単なるサッカー同好会」。
実にあっさりとした時間と空気が流れていたからだ。
そして直後の試合で、ガラタサライは格下相手のチームに大苦戦の末辛勝。
内容的には完全に相手チームの方が勝っていた。
幾度か、ガラタサライのチーム内部での確執が取り沙汰されたことがある。
イスラムに信心深いメンバーと、(主にドイツ育ちの選手を中心とした)そうでない
メンバーとに分かれているというものだ。けれど、これは大した問題ではないと
私は思う。(チームが下降して来ると、面白可笑しく、それらしい事を書き立てる
メディアの性質も鑑みて)
どんな組織にでも、生身の、しかもギャラの異なる人間が集まる限り、大なり
小なり確執や意見の衝突は必ずある。
「優勝」というひとつの目標が共通項だとしても、それがギャラアップの手段でしか
ない選手もいれば、名誉・達成感を重んじる選手もいるだろう。価値観の違いも、
チームが勝ち進んでいれば互いに「優勝」という事だけを見つめて走れる。
けれど、負けが込んで来ると「あいつは自分の事しか考えてない」だの
「チームの為だなんて、偽善ごかすなよ」だの、よからぬ考えが生まれ、ひいては
「信心深くないからそうなんだ」とか、「神だの宗教だの言ってるから~なんだ」
という事にまで発展して行くのではないだろうか。
つまり、当たり前の事なのだが、勝ち続けていれば自然とチームを流れる空気は
良くなる。感情の新陳代謝も上手く行き、勝利が勝利を生むようになる。
それが、負けが染み付くと、疫病神はなかなか離れなくなる。
そして普通人間は、その原因を他人やクラブに押し付けたくなるものだ。
1度も負けるなとは言わない。100年もやっていれば、良い時も悪い時もある。
けれど、負ける事に何も感じなくなったらお仕舞いだ。「ガラタサライ」として、
恥ずかしい試合を見せてはいけないと言う事を忘れて欲しくない。
それは何も、常に全力を尽くせという事ではない。
「抜く」ことと、「抜け切る」ことは全く違う。
むろん、これは選手達だけが悪いのではなくて、「チームに忠義を尽くそう!」
という方向に、持って行けないクラブや指導者にも問題があるのは先に述べた通り。
また、外からは判り得ない色々な要因もあってのことだ。
来年の記念すべき100周年を、UEFAの優勝カップを眺めながら
「あの頃は良かった」
という懐古趣味なものだけで迎えて欲しくない。
それはとりもなおさず、選手達自身が一番心に秘めている事だと、信じたい。